僕の小論文。 お題『常識というもの』

 
『常識』というものは、一定した形が無く、全てに当てはまる常識を探すという事はとても難しい。
それは、この世界の国々ではそれぞれの文化や宗教があり、それぞれの『常識』が異なるからだ。
真剣
 
「服を着る」という一見常識的な風習も、裸族という民族にとっては通じず、
裸族の「服を着ない」という常識は、その他の民族には通じない。
相手にツバを付けるという常識外れな挨拶をする民族もいるらしいが、それはその民族にとっては常識なのだ。
以上の事から『常識』というものは、一定の形はなく、一概に言えるものではないことがわかる。
 
さらに、常識は変化もする。 
昔では常識であったことが、今になって非常識になるということは珍しい事ではない。
日本でも、昔は侍が帯刀をしていたが、今では帯刀などしていたら警察沙汰だ。
言葉使いも、昔と今では全然違うと言っていい。
常識は、形もなければ流動的で常に変化しているものと言ってもいいだろう。 水のようなものだ。

  
それでは、常識の価値観が違うもの同士は、一生分かり合えないのだろうか。
例えば、裸族が東京に現れたとする。 すると街は騒然とするだろう。警察も動く。
逆に、裸族の村に渋谷を歩く若者がふいに登場する。 村人は奇異の目で若者を見るだろう。
が、その後の展開を予想してみると、
渋谷の裸族は服を着せられ、裸族の村に現れた若者は、服を脱がされると思われる。
つまり、その世界の常識に順応させられるのだ。
それは言い換えれば、「数が少ない者が、数が多い者に合わせられる」ということで、
ここに常識というものは存在すると私は考える。

 
数が多い者に少ない者が合わせる。
つまり結局は少しニュアンスは違うが、常識とは「多数決」なのだ。
日本人の8割が砂を主食としていたら、それはもう常識となり、
むしろ白米を食べる日本人が不思議に見られてしまう。
が、砂を食べて健康でいられるわけもないので、この世界ではそれは常識では無く、
適度な満腹感と栄養のある米が主食として食べられている。 数が多いということはそれなりの理由があるのだ。
常識というのはそれなりの理由があり、文化や言い伝えられてきたことが背景にある。
そう考えると、春夏秋冬のある日本と、暑い南米の裸族の常識が違うのもうなずけるだろう。
そのような背景をお互いに理解しあうことで、常識の価値観も変わり、相手の国の常識にも自ら順応できるだろう。

  
大切なのは、自分の中の常識を押し付けないことだ。
押し付けず、流動的で変化にする水のような常識に溶け込むことで、常識の価値観も変わってくるだろう。
 

 
 

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