「平和」な小論文。

こんちは!
今年、18歳にもなり、受験生となった僕は、小論文を練習しなくてはいけません。
将来、教師になりたい僕ですが、それには大学へ進学することが必要不可欠なので、
日記の更新もかねて、小論文の練習をさせて頂きたいと思います。
と、いうことで、今日は僕なりの小論文です。どうぞ!
 
 
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題:「うんこと平和」 
 
「うんこ」という言葉は、漢字に無理矢理変換すると『運行』となるが、
実際に体内では食道を通り、胃に入ってきた食べ物を腸まで運行し、
そこからさらに食べ物を養分を体に吸収させながら、大腸へとうんこを運行し、
そのうんこを、肛門から排泄しているので、あながち間違いでもないと言える。
 
そのうんこの排泄する場所の『肛門』。
この『肛門』を英語風に発音すると『come on』と、聞こえるのだが、
結果的には、体の中を運行されたうんこを『排泄』する所。いわば『出口』となるのだから、
どちらかというと、『come on』よりも、『back come on』と、いうニュアンスになる。
そして、その『back come on』を逆に日本語風に発音すると、
『ばっかもん!』と、聞こえなくも無い。
『ばっかもん!』と、言えば「サザエさん」の波平であるが、
今まで書いたことから、次のような方程式が成り立つ。
  
肛門 = 波平 
 
と、いうことは、この日本国では日曜日の7時というゴールデンタイムに、全国ネットで肛門が喋るアニメを放映していることになる。
このような国は、この日本国しか無いだろう。
そんなハレンチな暴挙が許されるのも、この国が「平和」だからであり、
我々はその「平和」を日々求め、そして追求しながら生きている。
つまり、
 
肛門 = 波平 = 平和
 
と、なるのだから、我々は、常日頃から「肛門」を目指して生きていることになる。
その求めている「平和」とは、質量などが無く、手にいれても具体的な何かを実感するのは難しいが、
もしもその正体が「肛門」だというのならば、灯台下暗し。 いつの間にか人は平和を手にしているということだ。
「手にしている」と、いう表現よりも、「体の一部」という方が正しいのだろうか。
人間は常に前に進もうと努力をするが、もしも平和の正体が自分の「肛門」だとしたら、
人は時として、後ろを振り向いて立ち止まることも必要なのかもしれないだろう。
が、後ろを振り向いただけでは、肛門(平和)を目にすることはできない。
後ろを向き、鏡をのぞき、初めて肛門(平和)を目にすることができるのだ。
目先の平和を追い続けるよりも、後ろを向いて、鏡で自分の姿を見つめることにより、本当の平和を手にすることができるのではないだろうか。
 
小学生などがする「カンチョウ」は、相手の肛門に自分の指をねじ込むことであるが、
「肛門」という名の「平和」を手にいれたい。 という、感情が本能的に引き出された結果に、起こる現象なのではないだろうか。
(この場合、「平和(肛門) を 手にいれる」と、いうよりか、「平和(肛門) に 手を入れる」の方が正しいが。)
年齢が小さいほど、自制心が無く本能的になると言うが、
小学生がやたらに下品な言葉をいうのは、『平和を追求したい』という本能が、そうさせているのではないだろうか。
 
こうしてみると、『下ネタ』といえども、「下品」という一言で片付けるべきではないだろう。
下ネタには、人間が本能的に笑顔になれる要素を持っていると言える。
つまり、下ネタは世界を救うというわけだ。うんこぶりぶり。
下ネタを忌み嫌っている人は、考え直してくれることを切に願う今日この頃である。
 
つまり、私が言いたい事はというと、
男ならわかる
生まれ変わったとしても、トイレのこの部分には絶対になりたくない。 と、いうことだ。
 
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・・・どうでしょうか!?
自分勝手な考えをツラツラと並べさせて頂いたのですが、個人的には気に入っています。
もしよろしければ、みなさんの意見も是非聞かせていただきたいです!
では、今日はこのへんで!
ではまた!