僕の小論文。 お題『個性とファッション』

 
 
頑張って語ります 

 
『個性』とは、その人を表すファッションであったり、その人らしい性質のことを言う。
そしてその「個性」という言葉を使った『個性的』という言葉は、
その物が他の物とは何か一線を引いたような違う魅力を感じたときに使う言葉であるが、
それが成立するのは、個性的と感じたものの周りの物が「無個性」であると感じた場合である。
 
日本人は周りに合わせる性格を持ち、個性が無い。と言われているが、
これからの日本人は、一人一人が個性を引き出して生きていくべきなのだろうか。
 
なのだろうか。
 
一般的には、一人一人が個性を引き出し、他人と一線を引くファッションをしていてもいいだろう。と言われているが、
私はそうは思わない。
 
目を引くような色使いや形・・・
例えばピンク色と緑のツートンカラーの髪で、派手派手しいサイケデリックな配色の服を着た人が街中を歩いているとする。
その人は確かに周りに比べれば目を引く個性的な人かもしれない。
が、その人は言い換えれば『浮いている人』と言ってもいいだろう。
その場所にはその場所に合った格好があり、そこにいる人はその場に合った服装になるべきなのだ。
葬式では黒を基調としたモノクロな服装で、
パーティでは華やかな服装で、
街に行くならば、季節に合ったカジュアルな服で出向くのがいいだろう。
 
いいだろう
 
先程述べたような、ツートンカラーの髪の毛でサイケデリックな人も、ハロウィンパーティの会場にいるとすれば、
周りのドラキュラや、派手な衣装の人達に紛れ、個性はとても薄くなってしまう。
つまり、「街なら街を歩く最低限のファッション」というくくりの中で、個性を探そう。ということだ。
街を歩いたり、ウィンドウショッピングをする人達は、街で過ごすためのファッションの枠の中で自分自身を表現する必要があるのだ。
以上の事から、先ほどのツートンサイケで街を歩く人は、街を歩くファッションではなく、
ただの気味の悪い人となってしまう。
が、それもその人にとっての個性。 こちらからは何もいえない。
  
何もいえない。
 
街を歩く人が皆ほとんど同じような格好なのは、それが街を歩く人が着る服のベースだからであり、
ベースがあるのならば、服装が似るのもうなずける。
それを見て「個性がない」というのは少し間違っている気がする。
そのベースを壊したファッションは確かに個性ではあるが、それは少しおかしな個性かもしれない。
 

  
以上のことから私は、
日本人は一定のベースの中で個性を出しており、その結果が今の日本の個性とファッションだと私は思う。
よって、日本人はこれから無理に個性を引き出す必要は無いと思うし、
ずっと今のままのような節度を持った中で個性的を探すファッションのままでいいと私は思う。
 
 
 
 

 
 
〜完〜